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今! ! 被爆体験語らねば 多くの人に知ってほしいあの日の広島

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 新居浜市の津村義文さんは、1928年生まれの87歳です。学生の時広島で被爆しました。
 戦後70年守られてきた平和が危うくなっています。「戦争体験者も少なくなってきた今、僕が見たあの日の広島を、一人でも多くの人に知ってもらいたい。そして二度と愚かな戦争だけはしてはいけない」と語りました。


ヒロシマは火の海

 当時、私は広島大学の学生でした。学徒動員で、向灘の東洋工業で鉄砲を作っていました。「おまえらの作る鉄砲は、前へ向いて飛べば当たらんでもええから恰好だけは整えとけ。」教官が変なこと言うと思っていたけれど、鉄も鉛も不足して、この戦争が終わりに近いことをを知っていたのでしょう。  工場は爆心地から、約4㎞のところにありました。旋盤の前に並んで、さあ仕事を始めようとした時、原爆が投下され、工場の中は爆弾が落ちたような衝撃でした。外に逃げ出して空を見るとキノコ雲がヒロシマの上に広がり、落下傘がひとつその周りを回っていました。雲の下のヒロシマは火の海でした。  やがて工場の前は逃げてゆく「地獄の行列」が続きました。裸で体の皮が焼け、学校警備に着きました。グランドに植えてあったさつま芋を盗まれてはいけないので野宿をしてその番をするのです。このようなことの繰り返しで敗戦を迎えました。



ABCCについて

 原爆に関して特に強く心に残っているのは、ヒバクの惨状とともに当時のAB CCのことです。ABCCに被爆者が呼び出され、治療してくれるのかと思ったわれた多くの人たちが眠っている。その上を踏んで歩くことはできません。 『ほかのことは辞めてもズルむげになって、何故か指先から垂れ下がっているのです。電車の中では、つり革を握ったまま黒焦げになっている人、川辺には、水を求めて人や馬が折り重なって死んでいる。忘れようとしても決して忘れることはできません。  その日は東向きの風が吹いていて、爆心地より西にいた私たちは風上だったので助かったのです。苦しんでいる多くの人達に手を差し延べることもできず、先生の命令で熱い中ら、検査して写真を撮るだけでした。後日わかったことですが、この調査はアメリカが資料として持ちかえるためだけのものでした。  現在も研究のためヒバク二世の追跡調査をしていますが、費用は日本が負担しています。




生涯の仕事として

 広島や長崎で開かれる平和集会に参加していますが、平和公園にはよう入りませ ん。あの土の下には命を奪ヒバクシャであることは辞めれない』との思いから被団協の県の会長や四国ブロックの代表理事の活動をしてきました。  87歳の今日まで無事生きてきた私が、原爆の実相を語り、医療生協と共に平和を守る運動を続けなければと思っています。

(聞き手 石井 和美)

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